言い伝えによると、日本橋鮒佐の創業は江戸時代末期(第13代将軍徳川家茂公の時代)、1862(文久2)年。世の中では、生麦事件が起こった年です。今から150有余年に遡ります。
江戸末期の安政年間(1850年代後半)、当時剣士として北辰一刀流の免許皆伝の腕前だった初代佐吉は趣味の釣りが高じて釣れた小鮒を串刺しにして醤油で付け焼きするという“鮒寿々め焼(ふなすずめやき)”を商いにしていたそうです。
その佐吉が1862年(文久2年)のある日、釣りをする為舟を出した所、品川沖で時化(しけ)に遭い、佃島に漂着しました。
漂着した佃島で佐吉は、地元の漁師が雑魚を塩煮にしているのにヒントを得て、小魚を醤油で煮込み市中で売り出しました。この時の醤油煮が現在の“佃煮”の原型を創ったと云われております。
以来鮒佐の佃煮は、江戸食通の間で評判となり、『元祖佃煮』として5代 155年、今に至ります。
現在は、4代目、5代目が自ら釜場に立ち、商品作りに励んでおります。
当時は、佃煮は高価な品物で文豪などの嗜好品として親しまれておりました。佃煮が、一般的に販売・流通されるきっかけとなったのは、日清・日露戦争であったとされております。当時保存性の高かった佃煮が、戦時食として注目され、戦争へ行った人々が帰国後佃煮を買い求め、佃煮店が急激に増え大衆化されました。
日本橋鮒佐のルーツは初代佐吉にあります。
現在ある日本橋鮒佐は中興の祖である三代目 大野金盛(かねもり)により形作られました。
昭和中期から後期にかけ、先祖から代々受け継いだ秘訣の味にさらに工夫を重ね、今日他に類を見ない江戸名物の佃煮を生み出します。これを記念し、『金鮒佐佃煮』と商標登録しております。金盛の、味に対する創造性と真摯なモノづくり精神は今もなお私たちに生き続けてます。
四代目 宮内隆平(現在の店主)は、三代目の教えを更に昇華するべく社訓に三つを加えました。